日本人とはなんなのか
昨今、新型コロナウイルスによる自粛や、日本政府への疑惑、ネット上の問題などを見ていると、「どうして日本とはこうも生きづらい社会なのか」と嫌になってしまうことがある。
逆に、日本のよさが行動に表れている場面に遭遇することも多いように思う。
緊急事態宣言が出された後の日本国民の対応は、感染者が激減した今、世界中で評価されている。
しかし、あえて批判的に捉えるならば、その「団結」とは言えない「同調」が、第二次世界大戦下の日本に似ているなぁ、何も変わってないんだなぁ、なんて感じたりもする。
普段、なんとなく生活していると、そんなことはあまり気にならないのだが、日本人の特徴が見えやすくなっている今だからこそ、考えていきたい。
われわれ日本人は日本のことをどれだけ理解しているのだろうか。
理解してる気になっているだけではないか。
日常生活の中で、他人に指摘されて初めて「間違っていたんだ!」と自覚したことがあると思う。
自分が信じている考えや価値観は、実はそんなにあてにならないものかもしれない。
今こそ自分の考えに疑惑の目を持ち、客観的に見つめ直すことが必要なのではないだろうか。
1946年に出版された、ルース•ベネディクトの『菊と刀』は、アメリカ目線で「日本人とはなんなのか」について論じた本である。
客観的な分析を、日本人が読むことで日本人について知ることができる、非常に興味深い本である。
前述したが、第二次世界大戦下の日本人と、現代の日本人は本質的に変わらないのではないか、という仮説のもと、『菊と刀』を参考にしながら「日本人」について考えていこうと思う。
※「○○人」という言い方で一括りにするのは好きではないが、今回は便宜上、「日本人」という言い方を使うことにする。
「恥の文化」と同調圧力
ベネディクトは著書『菊と刀』で、日本の文化を「恥の文化」と表している。
「恥の文化」とは、周りの評判や、他人の目を基準とする道徳のこと。
よく、「恥をかく」と言ったりするのは、良し悪しの基準が自分の内面にあるのではなく、「周りからどう見られるか」「周りがどう思うか」が基準になっているからだろう。
こういった文化の基盤が、75年前、いや、もっと前から日本に根付いている。
これ自体悪いことではないし、むしろ日本の素晴らしい文化として評価されるべきだと思う。
周りを気遣う優しさや、礼儀正しさ、約束の遵守などは海外でも驚かれる。
しかし、危険なのは、この文化基盤が一人歩きし、「周りがどう思うか」→「周りが個人を律する」といったように変化していくことである。
さらに恐ろしいことに、「周りから個人を律している人」におよそ自覚はない。
知らず知らずのうちに相手を傷つけていたり、諦めさせていたりする。
そういった「無自覚の否定」は、価値観の単一化を生み出す。
そして、そういった単一化した価値観を再び他人に、無自覚に押し付けてしまうのではないだろうか。
例えば、「25、6になったら結婚する。」「女性は結婚したら名字が変わる。」、「思春期になると異性に興味が出てくる。」など…
これらを何となく当たり前に思っている人が大半なのではないか。
あえて生涯未婚を貫く方、別姓の夫婦、性的マイノリティの方々…。
知識としては知っていても、見えてこないから、実感としてわかない。
文化の基盤は変わらずとも、戦後様々な価値観の変容があった。
その価値観の移行期間に嫌な思いをしたり、差別を受けたりするのはいつも少数派の人たちだった。
彼らは、いつも世間の「当たり前」とのギャップに悩まされている。
この「当たり前」こそが、「恥」を生み出す、日本人的「同調性」であり、暗黙の了解で出来上がった社会としての共通理解である。
これまではそれでも問題なかったかもしれないが、多様な生き方、考え方が出てきた現在、
「あなたはそういう考え方(立場)なんだね。でも僕は、こういう考え方(立場)をしているよ。」
という姿勢を持つことが大切だと思う。
集団の「同調」ではなく、個人として、まずは受け入れる。否定はしない。
なぜなら、自分の信じている考えや価値観が間違っているかもしれないから。
自分と違う考えや立場の人がいるのは当たり前。自分と同じ考えでないと気に食わないのは傲慢そのもの。
それをマジョリティの「同調」で否定するのが、私から見た「日本人」。
違いを攻撃するのではなく、違いを楽しみ、受け入れた方がもっと生きやすい「日本」になるのではないか。
こういった周りへの配慮が、理想とする「恥の文化」である。
これも正しい答えとは限らない。考えのひとつくらいに思ってくれれば嬉しい。